亡くなった母に出来ることは?

もしもし相談2016年5月 昨年、91歳の母を亡くしました。私は若い頃、母に心配ばかりかけていました。優しかった母のことを思うと自分の親不孝が情けなく、申し訳ない気持ちで一杯になります。せめて私にできることをと思って、母が亡くなってから毎日お仏壇に手を合わせていますが、他に母の為に出来ることはないでしょうか。(71歳・女性)

 

 人は誰でも生きている間に、嬉しいこと楽しいことは勿論のことですが、さらに苦しいこと辛いこと等枚挙にいとまがないほど様々な経験をします。その中でも特に母親との死別は、死の重さを痛切に実感させる特別な体験です。あなたのお母さんは、きっと生前とても優しくて温かい母性に溢れた人だったに違いありません。そんなお母さんに反抗したり、ときには憎まれ口をたたいたりしたことが今となって悔やまれて自分の親不幸が情けなく、居てもたっても居られないあなたの痛惜は、ほとんどの人が味わっている共通の心情ではないでしょうか。
私も時折亡き母のことを思い出すことがありますが、そんな時懐かしさと取り返しのつかない痛恨の念とか入り交じって、あなたと同じように申し訳ない気持ちでいっぱいになります。仏前に手を合わせ、南無阿弥陀仏と称名念仏しながら、亡きお母さんの為に、何か自分に出来ることはないのかと必死に心を痛めておられる様子を拝察しますと、どんなに愛おしいと思っても、どうしてあげることも出来ないもどかしさと、人を愛する心の限界を身に染みて痛感しておられるに違いありません。
称名念仏の「南無」という字はインドのサンスクリット語ですが、「阿弥陀仏に帰依し頭が下がる」という意味です。「阿弥陀」も同じくサンスクリット語で、「無量寿・無量光」という意味を持つ言葉です。仏前で南無阿弥陀仏と称名念仏することによって、今まで見えなかった罪深い我が身が露呈し、自力無効の我が身に自ずから頭が下がり、今まで聞こえなかった声が聞こえてくるのです。この声こそ、生と死を超えた無量寿の世界からの止むことなき語りかけです。
「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ。永遠は現在の深みにありて未来にかがやき、常住は生死の彼岸にありて生死を照らす光となる。その永遠の光を感ずるものはただ念仏である」(『歎異抄領解』金子大榮)
この言葉も、生と死の狭間をさまよい戸惑う私たちに、生死を超えた無量寿の世界を的確に告げ知らせてくれています。
あなたのお母さんは、どんな時でもなお死なずに法身の光の中にいきいきと生き、あなたの存在の深い闇を照らし続けてくれています。
ご相談の件ですが、これを機に、称名念仏が今後の生活習慣となるように常に心掛け、お寺の法要や聞法会にも率先して出かけ無量寿のいのちの語りかけをひたすらに聞思する道を、たゆみなく歩み続けてくださることが亡きお母さんの為に出来るあなたの唯一の行為だと思います。それはとりもなおさず、亡きお母さんが、あなたにそのように生きて行ってほしいと切に願い続けておられることなのではないでしょうか。
(新田 修巳)

今月のことば

今月のことば
夜明けの前は 闇に決まっている 闇に先立つ 夜明けはないことである ~高光 大船~

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